その症例提示の際、私が聞いている限りではAという技法が唐突に出てきた気がしたんです。「なんでそこでAなの?」って感じでわたくしの頭の中ははてなでいっぱいになりました。
で、症例提示が一通り終わって質疑の時間になったので私は質問してみました。「なぜ経過のそこでAを使おうと思ったのか?」「なぜ他の技法ではなくAなのか?」と…それに対しての発表者の回答は「なんとなくその時、Aがクライエントを癒すと思ったから」でした。
私は一瞬固まってしまいました。「なんとなく?」「癒すと思ったから?」…で、講師の先生はそれをフォローするかのように「そういう空気というか雰囲気が臨床上は重要」ってなことを言っており…
確かにそれが分からないのは、私の臨床経験及び臨床実践の能力の乏しさに起因していたのかもしれません。ただ(いくら心理臨○学会といえども)アカデミズムの体現の場としての学会で、それはありなのか?と思ってしまいました。その症例提示をした人だったり、講師だったりが「なぜそういうことになるのか」ということを説明できないとしたら、その技法は全く一般性を持たない…つまりこれまで主張してきたところの「再現性」が著しく低いということになるわけです。
ちなみにその時の講師と発表者の先生はいずれも某旧帝大出身であり、私のユング嫌いは(まあもともと好きではなかったんですが)そこから始まったと言っても過言ではありません。
その後も割と色んな講習会だったり研修会に行ってますが、そういうことって少なくないんですよね。「なぜそう見立てたのか?」「なぜその技法を使おうと思ったのか?」「なぜその場面でそう応対したのか?」ってのが明確にならない事例発表って多いんです。それなしでどうやって自分の中でも技法を一般化するのかってすごい思うんですよ。そうやって「論理性」が欠如していたらいつまでたっても「再現性」を高めることなんてできないと思うわけです。
自分の臨床実践に責任を持とうとおもったら、そういうことを常に考えていなければならないし、そう考えると研究することは(臨床家にとって)時間の無駄などでは決してなく、「再現性」「論理性」に関する能力を高めるという意味で臨床の質を上げることに繋がると考える次第であります。
なんかあんまりまとまりませんが…言いたい事わかりますよね?
<まだ続くかも>