研究と臨床

大学院教育の意義-批判すること・されること-

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我が国において、心理職を養成するために修士課程修了というのがスタンダードなコースになりつつある昨今ですが、当ブログでは何度かその意味について考えてきました。
その辺はたぶん「研究と臨床」のカテゴリーの過去ログとかに書いてあるような気がします。
んで、最近の当ブログでの議論の中で、ふと付け加えたくなったことがありましたので、忘れないうちにエントリにしておこうかなと思いました。
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私が受けた教育を思い返してみると、学部時代は「批判する能力」を鍛えられたような気がします。
高校までの勉強、大学受験のための勉強が基本的には「知識を得る」「覚える」ことが中心だったのに対して、大学に入学してからは、もちろん「知識を得ること」も必要ですが、それよりも「批判的に考える」ことの重要性が増すのではないでしょうか?レポート書くってことにしてもそうですし、ゼミなんかだと論文をクリティカルに読むということを目的にしてるって面もありますよね。
…余談であり、そして当ブログでは何度も紹介しておりますが、この点について今はこういう良い本があるのですよね。

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ってのは余談でした。
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んで、大学院ではさらに「批判されること」についてのトレーニングが実は重要だったのではないかと思うのです


当然、大学院に入っても論文だったり他者の研究を批判的に見ることはするわけですし「批判すること」の重要性が薄れることはないのですが、自分が研究する立場になったとしたらこれはもう否応なしに「批判される」立場に立たされるのですよね。
そして臨床実践に関しても、トレーニングまっただ中の身でありますからそれこそ日々批判を受けるわけですよ。ロールプレイやっちゃあ批判され、アセスメントの練習して報告書書いてみては批判され、インテーク面接しては批判され、スーパーヴァイズを受けちゃ批判され…。
んで当ブログでは何度も述べてきた「大学院は(教育機関である前に)研究機関である」ということを踏まえると、この「批判される」能力を身につけるってのは、研究する上では必要不可欠なものであり、つまり大学院における教育で重要な位置を占めているのではないかと思ったわけです。
中には批判をしてるつもりで余計な感情を交えて攻撃してくる人もいるかもしれません。先輩だったり、同輩だったり、後輩だったり、あるいは教員の中にもそういう人はいるかもです。んでも「批判される」能力を身につけていれば、その辺は峻別できるのではないかと思うのですよね。純粋に発言内容を批判しているのか、それとも発言内容を批判せず余計な感情が混じっているのかってことは。
そして、この仕事を(まともに)やっていく限り、ずーっと勉強は続くし、それはずーっと批判され続けることと同意だとも思うのです。何よりも「クライエントに(最低限)迷惑をかけない」ためにも「批判されること」を恐れていてはいけないでしょう。
そして大学院のうちにしっかりと「批判される」能力を身につけておけば、その後も「批判されること」をそんなに恐れなくなるんじゃないかと思うのです。
んなところを、心理職養成に修士課程修了という条件がつくことの一つの根拠に出来るのではないかと思った次第であります。
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という意見に対しての皆様からの真摯な批判、よろしくお願いしますです。

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