かなり昔、一度語りつくしたところではあるのですが、改めて過去ログを読み返してリライトしてみたいと思います。結論は同じになってしまうかもしれませんがご容赦を…。
その過去ログはこちら。
・【研究】臨床心理士が研究するということ(1)【臨床】(05/01/25)
・【科学的】臨床心理士が研究するということ(2)【思考】(05/01/26)
・【再現性】臨床心理士が研究するということ(3)【論理性】(05/01/31)
・【これまでの】臨床心理士が研究するということ(4)【まとめとか】(05/02/04)
・【色んな】臨床心理士が研究するということ(5)【実例とか】(05/02/07)
・【科学者】臨床心理士が研究するということ(6)【実践家】(05/02/10)
・【修論で】臨床心理士が研究するということ(7)【症例研究】(05/02/11)
そして関連エントリがこちら。
・質的研究と量的研究(05/06/21)
・「役に立たない研究」は存在するのか?(05/09/26)
さて…
大学院生時代に先輩から言われたこと
大学院生だったある日、私は臨床と研究の両立についてブツクサと文句を言っていました。当時の私は、研究しなくてはならないから臨床のトレーニングもなかなか出来ないし、それでも臨床の勉強もしないといけないから研究が進まないと考えていました。だから、臨床以外の分野では研究に専念できるのがうらやましいとも思っていました。
そんな私に対して、研究室の先輩がこんなことを言いました。
(まともな)心理学の研究というのは、仮説を立てて、その仮説を検証するための方法を考えて、その方法に基づいて実験・調査をおこなって、その結果を考察して、その考察から仮説が間違っていたらさらに仮説を修正して、仮説を検証するのにより良い方法があったら方法を修正して、実験・調査をして、考察して…という流れで進んでいくものであり、これは実は臨床実践の在り方と一緒である。
つまり(まともな)心理臨床の実践というのは、アセスメントをして治療的な仮説を立てて、その治療的な仮説に基づいて方針を決め、その方針に基づいて実際の面接をおこなって、面接を繰り返す中で治療的な仮説を修正し、また問題解決のためのより良い方法があったら、方針を変更する…という流れで進んでいくものである。
そして…
研究にしても臨床実践にしても、「どうしてそうなるのか?どうしてそうするのか?」ということを「考えること」が非常に大事なのだ。
と。
つまり、その先輩が言いたかったのは
・「研究と臨床実践というのは繋がるものであり、大学院生時代にはその双方の質を高める必要がある」
・「研究の質を高めることで臨床実践の質が高まる可能性があるし、臨床実践の質を高めることが研究の質を高めることもある」
ということだったのだと思います。
その時の私はその考え方には強く同意しましたし、今でもその考え方は私の研究そして臨床実践のあり方に大きな影響を与えています。
「なんとなく」の研究
大学院生にその研究計画を尋ねた時、なんとなく「今までやられてないから」という理由で「ある変数とある変数の関連を調べる」という研究デザインを語られるということが少なからずあります。
確かに、それで一つの研究らしきものはできるのかもしれません。しかしそうした研究計画というのは、修士課程を修了して臨床心理士の受験資格を得るという目的のためだけのもののように思えてならないのです。
「今までやられてないから」というのは、研究の意義としては成立するかもしれません。しかし「何故今までやられてないのか」ということは考えたのでしょうか?
検証したい仮説を検証するためには、実はもっと他の変数だったり、他の概念だったりを持ってきた方がいいかもしれません。そう考えてみると、実は既にやられている研究である可能性があります。
さらに、臨床心理学的な研究であれば、臨床実践にその研究がどうフィードバックされるのか、その研究をすることはどういった臨床的意義があるのかということも重要です。
ひょっとしたら今までやられていないのは「臨床心理学的に意義のない研究」だからかもしれません。そこを説明するためには「今までやられていないから」というだけでは不十分です。
「なんとなく」の臨床実践
これも私が大学院生時代にまた別の先輩から言われたのですが、心理療法というのが「治療的意図に基づいたコミュニケーション」なのだということを、皆さん普段から意識していますか?
そんなことは当たり前だと言われるかもしれませんが、しかし心理療法が「治療的意図に基づいたコミュニケーション」であるならば、面接場面で発せられる言葉であったり、面接場面でのやり取りというものは、全て治療的意図に基づいているはずであると思います。
下手な面接というのは「なんでここでこう言ったの?」とか「なんでここでこう返したの?」と後で考えてしまうようなやりとりが多く、治療者自身もそのことについて尋ねられると「いや…なんとなく…」的な答えしかできないことが多いです。
もっとひどい場合、上で述べたような「治療的仮説」や「方針」を決定した根拠が「なんとなく」であったりすることもあります。つまり「なんとなく」で見立てをし、「なんとなく」で面接を進めてしまうわけです。
ちゃんとした見立てもなしに面接するなんて、普通の神経であれば恐くてできないでしょうし、それは自分のクライエントに対してものすごく失礼なことをしてしまっていると思います。そうした面接は恐らく早い時期に破綻してしまうことでしょう。
臨床実践における「科学的思考」
私は臨床心理士が臨床実践に臨む際に「科学的思考」というのは必須だと思っています。
研究と臨床実践がどう繋がるのか考えた際、その研究から得られた知見が臨床場面にフィードバックされて臨床実践の質が上がるということはもちろんあると思います。多くの研究者や臨床家が研究を行うことで、数多くの新しい知見が得られ、その知見に基づいて臨床心理学界全体で技術の向上がなされる。そうした研究がなされる際、当然「科学的思考」は必要になります。
ただし臨床心理士個人のレベルで見ていった場合、私はむしろその個人の「科学的思考」が鍛えられることで、その個人の臨床実践の能力が向上するのではないかと考えます。
そして、それが冒頭で述べた先輩の言葉の意味
・「研究と臨床実践というのは繋がるものであり、大学院生時代にはその双方の質を高める必要がある」
・「研究の質を高めることで臨床実践の質が高まる可能性があるし、臨床実践の質を高めることが研究の質を高めることもある」
ということだと思うのです。
「科学的思考」によって「なんとなく」の研究になってしまうことが避けられます。「なんとなく」の研究が避けられれば「科学的思考」も鍛えられます。
そして「科学的思考」が鍛えられれば、同じように「なんとなく」の臨床をすることもなくなると思います。「なんとなく」の臨床実践が避けられれば、臨床実践の質も向上するでしょう。
つまり、それが研究と臨床実践の繋がりということなのではないでしょうか。
…
引き続き「研究と臨床実践はどう繋がるのか?」という問題について、「科学的思考」に基づいて考えていきたいと思います。
「なんとなく」「臨床心理士は研究すべきだ!」と言わないために。
そして、「なんとなく」の研究や「なんとなく」の臨床実践になってしまわないために。