臨床心理学

「受容」「共感」はそんな軽々しい言葉じゃない

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心理臨床家nobuのつぶやきBlog「共感」についてというエントリーを読んで思ったこと。
同じような内容になってしまうかもしれませんがご容赦を…>nobuさん
「受容」とか「共感」とかといった言葉を我々心理臨床家は当たり前のように使っていますが、本当にそれができている人というのは一体どれだけいるのでしょうか?私は「受容」だったり「共感」なんてことはものすごく難しいことだと思うのですよ。これは間違ってもネット上の議論の中でできるようなことではありません。


たまにいますよね。臨床心理学系の掲示板などで議論が加熱し、どちらかが劣勢になって論理が明らかに破綻し始めると(劣勢になるのはその主張が論理性や妥当性に欠けているからにほかならないわけですが)「カウンセラーとしての節度ある態度を!」「もっと受容的に!」とか主張しはじめる人が。ひどいのになると「あなたは共感性が足りない」なんて議論の趣旨とは全く離れた個人攻撃になったりして…そういう人には一言こういってやりたい。「氏ね」と。
臨床場面で「受容」や「共感」がといったことが意味を持つのは、そうした態度が臨床的に有用だからであり、心理臨床家が日常場面でも受容的・共感的である必然性は全くありません。それはネット上での議論においても同じことであり、そこは治療場面ではないのだからいくら議論の当事者が心理臨床家であったとしても、その議論の場で受容的・共感的な態度を示す必要はないわけです。前述のようなアフォな主張(「もっと受容的に」とか「共感性が足りない」とか)をする人に対してはもう一言言ってやりましょう。「あんた私のクライエントじゃないですから~、残念!」と。
正直言って「受容」「共感」なんて言葉を振り回す心理臨床家ほど胡散臭いものはないと思います。ここで前にもご紹介したこの本からちょっと引用してみましょう。

フロイトをはじめ、特に古典的なフロイト派、精神分析の人たちはあまり肯定とか受容とか共感とか、そういうことを言わないのです。最近はそうではない理論が精神分析の方にも出てきてはいますけれども。私自身も使いませんね。なぜかというと、私自身の感覚で言うと、使うとその言葉に自分が甘えてしまう。自分が相手に好意的に接してさえすれば万事OKだというような気分になってしまうと、これまた慢心になるのです。自分が共感しているつもりでいて、実は全然できていないというセラピストが非常に多いですから、そういうことに対する自戒の意味でも、あまりそういう言葉は使いたくない。本当に相手を分かろうとしているときの自分自身の真剣な気持ちは、受容だの共感だのという言葉では言い表せないような、もっと真剣勝負のような心境で、そういうときに自分が本当にこの仕事をしていると思えるんです。

うーん。やっぱり禮子タソ萌え~です。もう一回リンク張っておこう。

精神分析的心理療法の実践―クライエントに出会う前に
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「受容」「共感」なんて態度は(臨床場面では)ものすごく当たり前な態度なんだけど、本当はものすごく難しいことなのですよ。こういう言葉を振り回す人…今一度自分の臨床をふり返って考えてほしいものです。

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