資格問題

「実名で議論しろ」と偉い人が言うのって言論封殺じゃないの?──国家資格化関連の“平井正三”氏からのコメントに応えてみる その2

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※とにかく長いです。長文注意!です。

さて、先日のエントリ、国家資格化関連の“平井正三”氏からのコメントに応えてみるのコメント欄にて、“平井正三”氏よりリコメントいただきましたので、再度お応えしましょうか。

…の前に、反論等してくださるのはありがたいんですが(それをしてくださることで私も自分の考えを整理することが出来るので)、私の書いていることちゃんと読んでくださいね>“平井正三”氏

何度も同じことを書かねばならないのは面倒なので。

さて…

ロテ職人さんは、

①「心理師」に創設によってクライエントが得ている利益が損なわれないこと

②資格制度を少しでも良いもの(マシなもの?)にするため、その成立過程で積極的な議論は必要不可欠であると思っております。もしそうした議論の中で、現状の必ずしも十分とは言い難い臨床心理士制度がメインの状況と比較しても、明らかにクライエントの利益が損なわれる可能性があるのだということが明確な根拠に基づいて示されるのであれば、私はいつでも反対派に回ります。

なんですよね。

1に関しては違います。もう一度書きますのでちゃんと読んでくださいね。そして勝手に部分引用しないでください。

私が再三主張しているのは“臨床心理士制度が何らかの形で残っていくのであれば、「心理師」創設によって少なくとも現状でクライエントが得ている利益が損なわれることは恐らくない”ということです。そして私は臨床心理士制度は何らかの形で残っていくと考えております。その根拠は“平井正三”氏のコメントへの返答という形で後に述べていきます(これも何度か書いていることではあるんですけどね…)。

2に関してはその通りです(というか、まんま私の書いた内容のコピペですから、違うはずがないんですが)。

その上で

「積極的な議論」そのものが学会レベルで行われていない。

だったら、最初からそうおっしゃればいいじゃないですか。

最初のコメントで

後者の主張をする人を一律に「既得権益を守ろうとする人」とするの言論封殺、全体主義であると言えば言いすぎでしょうか。

ロテ職人さんは、臨床心理士の発信する言説の中では、比較的「良識」を代表するとみなされているように思います。しかし、それでも、今の日本の臨床心理士コミュニティを毒しているように思われる日本型全体主義の色彩があるように感じてしまいます。初めに戦争=資格化遂行ありき、異論はすべて非国民=既得権益を守ろうとする人という図式があるように思うのですがいかがでしょうか?

つまり「ロテ職人=日本型全体主義の色彩があるように感じる」とおっしゃっているわけですよね?それは私に対する中傷なのでは?「積極的な議論が学会レベルで行われていない」ということを主張するのに、何故私を中傷する必要があるのでしょうか?

全く意味がわかりません。

ちなみに、国家資格創設反対派の人たちが意見を言う場がないというわけではないですよね?少なくとも心理臨床学会では年次大会で毎年必ず資格関連のシンポジウムは開催されていますし、そのシンポジストの中にはO塚御大のような立場の方もいます。フロアからの発言の機会が制限されているわけでもないですし…と考えると、少なくとも議論のための窓口は用意されているように思うわけですが。

こうしたことを十分検討しもせず、国家資格創設に向かうということ自体、クライエントの利益を大きく損なう状況につながる可能性があると言えませんか?

私は逆に、十分な検討の機会が得られていたはずなのに、何で今頃になってそういうことを言い出してるの?と思ってしまいます。

「こんなことになると思っていなかった」ということですか?そうだとしたら、それこそ「政治的分析」力の欠如であると言えるでしょう。

具体的な懸念をいくつか挙げておきましょう。「心理師」案は、明らかに現行の臨床心理士よりも専門性の低い資格案であり、その性質からして相当異なる専門資格ですよね。

そうですね。それは私も既に述べております。

現在有力な大学院カリキュラム案である心理学諸学会連合の出している案を見れば、「基幹科目」には基礎心理学だけで、臨床心理学がないですよね。

あー、そうなんですか。それはどちらで見られますか?詳しく見てみたいなあ…。まあ、諸学会連合が出してくるカリキュラム案であれば、そんな感じにはなるでしょうね。

実習も少ないところを見ると、これはこの20年余り「臨床心理士」の訓練―資格制度で行ってきたことを逆戻りさせているように見える内容ですね。指定校のカリキュラムと比べると、指定校のカリキュラムの基幹科目には逆に基礎心理学系の科目はありません。まるでオセロのようです。

「まるでオセロのようです」の意味はわかりませんが、むしろ今までの臨床心理士の指定校のカリキュラムの中に、基礎心理学系の科目がなかった方がおかしいと私は思いますよ。

今年3月の日本発達心理学会第24回大会公開シンポジウム「心理職の国家資格の展望と課題」(臨床心理研修センターのサイトで報告PDFがダウンロード可能です→3/15シンポジウム「心理職の国家資格の展望と課題」)で、指定討論者である日本学校心理士会会長の石隈利紀氏が、日本心理学諸学会連合の教育委員長という立場からこんな話をされたそうです。

日心連で検討し承認され、三団体拡大会議で確認された「心理職養成カリキュラム」を紹介され、その内容はサイエンティスト・プラクティショナーモデルに基づき、基幹科目(心理学に関する科目、法と倫理)、展開科目(援助理論、アセスメント、援助技法、予防・教育、関連科目)、実践実習である。これまでの心理学や心理支援に関する領域の蓄積が、これからの心理職に貢献できる

とのこと。

確か現行の臨床心理士資格も「科学者-実践者モデル」の実現を標榜していたような…臨床心理士の4つの業務に、「調査・研究」が含まれるのはそのためですよね?

参考:臨床心理士の専門業務公益財団法人 日本臨床心理士資格認定協会

それにも関わらず基礎心理学系の科目が入っていないのって、おかしくないですか?

現行の臨床心理士の養成課程にいくつかの科目をプラスして、国家資格である心理師(仮)の単位取得要件を満たすのは不可能なのでしょうか?

そりゃあ、今よりも学生の負担は大きくなるでしょうし、専門職大学院であれば立ち行かなくなる可能性は十分に考えられます。しかし、たかだか大学院の2年間で十分な臨床のトレーニングが出来るはずはないし、そもそも従来のカリキュラムの不備が補われるのであれば、それは喜ばしいことなのではないかと思います。

“平井正三”さんは最初のコメントで

だってそもそも現行の「臨床心理士」の制度が公益に十分資するものであると判断する人が臨床心理士になっているのではないですか?

とおっしゃっていましたが、その前提が違うのです。繰り返しになりますが、私は現行の臨床心理士資格の制度が公益に十分資するものであるとは考えておりません(というのと「全く公益にしすることはないと考えている」とは別のことなのはわかりますよね?)。

臨床心理士と心理師資格は、水と油のようなカリキュラムを持つ同等の資格ということになりますよね。となると、国家資格の心理師が臨床心理士を駆逐すると考えるのは当然ではないですか?

「なりますよね」とありますが、「水と油のような」というのは「全く相容れない」ということですよね?少なくとも上記の石隈氏の発言内容を考えると、そういうことではないのではないですか?

石隈氏の発言を見る限り、「水と油のような全く相容れないもの」ではないと考えられるため、国家資格である心理師(仮)と学会認定資格としての臨床心理士のダブル資格を取得可能な大学院カリキュラムというのは、不可能ではないと思うのですが…。これはどちらも国家資格ですが、社会福祉士と精神保健福祉士だって専門学校レベルでダブル資格の取得が可能です。心理師(仮)と臨床心理士のカリキュラムというのはダブル資格の取得が不可能なほど、かけ離れたものなのですか?

私は何か変なことを言っていますか?もし私の言っていることでおかしな点がありましたら、“平井正三”氏以外の方でも構いませんので、ご指摘していただけますとありがたいです。

心理師(仮)と臨床心理士のダブル資格が可能になったとして、仮に心理師(仮)しか持っていない人と、心理師(仮)と臨床心理士のダブル資格保持者、同じような経歴で同じようなペーパーテストの点数であった時、採用する側はどちらを選ぶでしょうか?普通は後者を選びますよね?

さらに臨床心理資格制度の更新制やそれに伴うポイント収集の労力を不利な要因に加えることができるでしょう。「現場では”使える”人を求めているから、”上位資格”としての臨床心理士は残る」なんていうことはあるはずもないですよね。(その理由をあげる必要はまさかないでしょうね。)

その採用の例で言うと、更新制やポイント収集の労力を嫌って心理師(仮)のみしか持っていない人と、更新制やポイント収集の必要があるとは言え自身の研鑽のために心理師(仮)と臨床心理士のダブル資格を持っている人、採用する側はどちらを選ぶでしょうか?後者は現場で“使えない”人だからという理由で落とされるんですか?そうだとしたら、全く意味がわかりません。

さらに大学(院)経営の立場から言えば、国家資格の心理師(仮)養成課程はどうしても設置したいところでしょうけれども、さらに現時点でそれなりに社会的認知度の高い臨床心理士も取得できる課程(端的に言えば指定大学院)でもあることは、それは志望者にとって大きなセールスポイントになるのではないかと思います。その内容はともかくとして、心理師(仮)のみしか取得できない大学院と心理師(仮)+臨床心理士のダブル資格が可能な大学院、多少カリキュラムが厳しくなったとしても受験生は後者を選ぶのではないでしょうか?

それを踏まえた上でまだ「駆逐」されるとおっしゃいますか?

だいたい“上位資格”なんて言葉を使うからわかりにくくなるんですよ。現行の臨床心理士なんて、単なる学会認定資格(厳密に言えば違いますがまあおおまかに言って)の一つじゃないですか?心理師(仮)の資格が出来たら、三団体によって出された要望書に書かれた「主な学会等が認定している心理資格」の全てが駆逐されるのですか?そんなことはないですよね?それぞれの学会でそれぞれの特色を出すための資格なわけですから。そんな中で、臨床心理士だけがピンポイントで駆逐されるはずはないですよね?

それとも「臨床心理士を他の資格と同じように語るな」とでもおっしゃいますか?単なる学会認定資格なのに?元々、そんな大層なものじゃないでしょう?

もしそんなことを言うのであれば、そりゃあ他の団体からは反感を買うでしょうし、それはまさに政治的な観点を無視した発言であると言えるでしょう。

臨床心理士制度ができて20年以上たちますが、(明らかに「現場のニーズ」があるにもかかわらず)何らかの「上位資格」が有効に出現した試しはありませんよね。医師も、欧米に比べれば「上位資格」はほとんど有効に存在してないですよね。つまり、心理師国家資格ができれば、「臨床心理士」資格は何の意味も持たなくなる可能性が高いということです。逆に言えば、そうでないとする根拠を明確にあげる必要があるでしょう。私の知る限り、それはありません。

繰り返しますが“上位資格”なんて言い方をするからいけないのだと思いますよ。単なる学会認定資格の一つとして、これまでと同じようにやっていく…じゃダメなんですか?「有効に存在する」の意味もよくわからないんですが、例えば医師国家資格の他に各学会の認定専門医ってのがありますよね。確かに法律的には何の意味もないでしょうけれども、一応、患者が医師を選ぶ際の基準の一つには出来るんじゃないでしょうか?そういう形で生き残っていくのは不可能なんですか?

「心理師」国家資格創設の動きの中で資格認定協会、そして大学院評議会が、資格創設推進の「三団体」「推進連」「臨床心理士会」から無視される形になっていることを指摘できます。つまり、臨床心理士の訓練―資格を担う団体との協調せずに進めていますよね。また。心理師国家資格創設に邁進している臨床心理士会の幹部の大半は認定協会と距離を置いているか敵対する人達ですよね。そして、「心理研修センター」創設の動きです。これらは、「臨床心理士」訓練―資格制度そのものをつぶす動きと考えるのが妥当ではないですか。

心理師(仮)よって他の学会認定資格も含めて全てが駆逐される…ここでの意味が「存続できなくなる」ということであれば、それはそれで公平な話ですが、そんなの不可能ですよね。“平井正三”氏のおっしゃる「駆逐する」「つぶす」というのが、「臨床心理士資格がこれまで持っていた優位性(そんなのあるのか?って話もありますが)が損なわれる」という意味であれば、それはあるかもしれないですね。でも、それってつまり「既得権益が損なわれる」ってだけの話ですよね?

「臨床心理士資格認定協会」及び「日本臨床心理士養成大学院協議会」(「評議会」じゃないですよ)が、国家資格創設の動きの中で無視されているのは、その政治的分析力のなさ故ですよね。反対するだけなら誰にだって出来ます。

私の好きな(と言っても初期限定ですが)マンガ『美味しんぼ』の第8巻「激闘鯨合戦」の中で、主人公の山岡士郎はこう言っています。

大の虫を生かすために小の虫を殺すなんてことですますなら、並の政治家でもできることですよ。大の虫も小の虫も生かす、それでこそ大政治家でしょう!?

私としては心理職関連の偉い人たちに「大政治家」であることは望みません。唯一「国家資格創設」という大の虫と、「臨床心理士養成のカリキュラム」という小の虫の両方を生かしてもらえれば、もうそれで十分なのです。本当に何度も繰り返しになって恐縮なのですが、心理師(仮)と現行の臨床心理士のカリキュラムは全く並び立たないものなのですか?ダブル資格を取得可能な大学院カリキュラムを作ることは不可能なのですか?

心理師(仮)のカリキュラムでは、実習が禁止になるわけではなく、現行よりも必要な時間が減るというだけの話ですよね?実習時間を国家資格取得の規定より増やすことは問題ないですよね?

基幹科目として基礎心理学系の科目が課されるだけではなく、展開科目として「援助理論、アセスメント、援助技法、予防・教育、関連科目」が設定できるわけですよね?今までのカリキュラムに基礎系の科目を追加するだけの話ですよね?

それを「水と油」とおっしゃる意味が私にはさっぱりわからないのです。理解力のない私に、その意味を教えていただけると大変ありがたいです。“平井正三”氏以外の方でも。

おそらく、この場で「ロテ職人」さんを説得するのは無理でしょうし、(勝手に人のブログで「批判的」なコメントをしておきながら申し訳ないですが)そのつもりも私にはありません。私と「ロテ職人」さんの「討議」は延々と不毛に続く可能性すらあります(あるいは自己満足的に収束する可能性)。

別に私のブログで私に対して批判的なコメントをすることは全く問題ありません。それを避けたいのであれば、最初からコメント欄を設置しておりませんから。そして何を持って「不毛」とおっしゃるのかはわかりませんが、こうやって自分の思考を整理できるということは、少なくとも私にとっては「不毛」ではありません。

個人的にはむしろ説得して欲しいんですけどね…なんでその根拠を示すことをされないのでしょうか?

問題の本質は、「ロテ職人」さんが自分の主張は正しいと思っており、それに同意する臨床心理士がたくさんいるのと同じように、私の主張に同意する人、さらに別の主張をする人も恐らく存在して、それらをそれぞれ大切にする過程にこそ真に改革があると言えないですか。

私も様々な意見はあってもいいと思います。ただ、それには「明確な根拠を論理的に破綻のない形で示すこと」が前提となりますが。

私の主張は、臨床心理士の職業的専門性は(クライエントの利益を擁護するとう点で)とても大切なものであり、それを担保するために必要な学術的、民主的な話し合いなしに進められている現在の「心理師」国家資格創設の動きはクライエントの利益を損なう恐れが高いし、ただちにそれをいったん止めて、しっかりとした討議をするべきだということです。

私の主張は、現行のカリキュラムが維持され資格が存続していくのであれば、臨床心理士の職業的専門性は(それが大してものではなかったとしても)ある程度担保されるであろう、ということです。

だから、そのカリキュラムが損なわれるのだという主張の根拠を…(以下略

7月14日日曜日午後2時キャンパスプラザ京都で「”心理師”国家資格問題のインフォームド・コンセント」という催しを私が主催する「臨床心理士の職業的専門性と資格について考える有志の会」が行います。もし可能であれば、「ロテ職人」さんも是非本名でその会に参加していただければと思います。それが無理なら私にメールをしていただければ、今後のこの問題についての催しで学術的、民主的な討議の場を用意しますので、ひとまずネット上の討議から私は撤退します。

……

…宣伝がしたいのであれば、最初からそうおっしゃればいいのに…。そしてここでようやく「新潟県臨床心理士会」に繋がるわけですね。これでやっとわかりました。何故“平井正三”氏がこういう形で私に接触してきたのかというその理由が。

せっかくですので、リンク貼っておきましょうか。

臨床心理士の職業的専門性と資格を考える有志の会主催
「心理師」国家資格化のインフォームド・コンセント
(※PDF注意)(新潟県臨床心理士会

「もし可能であれば」ってそんなの不可能に決まってるじゃないですか(笑)。何言ってるんですか?

一介の総合病院勤務の中堅(ペーペーと書きたいところですが、さすがに怒られそうなので)臨床心理士でしかない私が、リアルで偉い人に対してこのエントリで書いたようなことを言えるはずがないのは、少し想像していただければわかるのではないかと思うのですが…。

ネット上の議論は「学術的、民主的な討論の場」になり得ないということですか?確かに「学術的」ではないかもしれませんが、リアルでの身分関係なく言いたいことが言えるという意味では、よほど「民主的」だと私は思いますよ。

こんな名もない心理士である私が、もし実名を明かした上でこの手の議論の場にノコノコと出ていって、このブログで言っているようなことを話したとしましょう。そこで「大したキャリアもない、一介の病院勤務の臨床心理士ごときが無礼なことを言いやがって」と思う人が皆無であると言い切れますか?

そう思われる可能性はゼロではないでしょうし(むしろ煙たく思われる方の方が多い事でしょう)、さらにそう思われることが今後の私の臨床実践および研究活動に影響を与える可能性が皆無ではないことを考えると、私がそうしたリスクを犯してわざわざ実名を晒す必然性はないでしょう。「学術的、民主的な討議の場を用意しますので」とありますが、そこに欠席している人が私の主張内容を客観的に理解しようとせず、私の身分や属性を持って発言内容を歪めて捉えることがないよう、全ての参加者の感情を“平井正三”氏がコントロールするか、あるいはどなたかが私と私の家族の今後の生活の一切の保証をしてくださるのであればいくらでもやりますが、そんなの無理でしょ?

そういう意味で、匿名で自身の考えを主張している私に対して「実名での議論の場を用意する」ということは、「権威者による無意識的な(あるいは意識的かもしれませんが)言論封殺」に他ならないと言えるでしょう。

もう一点、このコメントを書かれている“平井正三”氏がこの本とかあの本とかの著者であるところの平井正三氏である可能性は限りなく100%に近いでしょうけれども、それでも完全にそうであると私が証明することは出来ません。少なくとも最初にコメントをいただいた時点では、コメント欄に書かれた“平井正三”という名前は単なるハンドルネームでしかありません。

ご自身が主催するイベントの宣伝をしたいのであれば、そりゃあ実名を明かす必然性があるのはわかりますが、“平井正三”であると名乗る理由が他にはありますか?

私の臨床的指向性を考えると、今後の臨床実践及び研究活動の中で平井正三先生と接触する、あるいは直接ご指導いただいくような機会も皆無ではないと思います。そんな先生に対して、私がリアルでこんなこと言えるとお思いですか?いや、言えないですよ。

こう考えると、仮に偉い人の名前を騙ることで、私が萎縮してしまう可能性だってあるわけです。それが「民主的」な議論ですか?やっぱり「言論封殺」的な要素はないわけではないですよね?

まあ“河合隼雄”本人の書き込みが今後なされるのであれば、それはそれで色んな意味で興味深いので是非お相手させていただきたいと思いますが。

とりあえず

ひとまずネット上の討議から私は撤退します。

と言われましても、ワタクシとしましては「ああ、都合が悪くなったから逃げるんだな」としか思えません。せめて上で再三繰り返している質問への返答はしていただきたいものですが…。

とりあえず、お読みいただいた読者の皆様方には、こんなクソ長いエントリになってしまいましたことをお詫びするとともに、ここまで読んでくださったことに感謝の意を表したいと思います。

すみませんでした。そしてどうもありがとうございました。

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